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  毎日にもっと楽~を! BLOG Tokyo

2008年4月20日

After wind's blowing, basinsmiths get money

After wind's blowing, basinsmiths get moneyと書けば映画のタイトルかなと思うが、なんてことはない風が吹けば桶屋が儲かるという日本のことわざの英訳である。今回は、学校と社会における知識の違いについて考えたい。

村上春樹の小説の中で主人公は、

「学校で教わったことは、学校で重要なことは何一つ学べないことだ」

と語った。そうかもしれないし、そうでないかも知れない。ともかく、答えを知っている先生から、なぞ掛けされるのが、子供にはつまらないのかもしれない。逆に誰も答えを知らないような「なぞ」に対しては、誰もが好奇心をもってその答えを探求し、それが自分を満たし、自分の存在感を確認するのかもしれない。人は、自分を知らない地へ旅行したり、新しい領域へ冒険し、夢を見るのもその延長と結びつけるのは飛躍しすぎだろうか。

学校で誤った情報を記載した教科書を用いたらニュースになるが、社会ではそのような情報のほうがむしろ当たり前である。現代社会では、あらゆる情報が飛び交う。それらの情報をひつづつ精査して、その因果関係を知ることが社会における知識あるいは経験とも言えるだろうか。

村上春樹の小説の主人公は、生き残るために社会の因果関係を知る必要があったのかも知れない。まぁ、生き残りのために必要かどうかはわからないが、誰も答えが知らないかも知れないというなぞなぞに挑戦することは、きっと楽しいことなんだと思う。

学校と社会における学習の仕方の違い

授業では例えばオームの法則を用いた理科の問題のように、形の整った問題であり、そこではオームの法則をきちんと理解させることが目標になっている。それに対して仕事上の問題は、複雑で要因が絡み合っている。夏に電力消費量が多いので、節電を呼びかけるが、なかなか効果がないのでどうしたらよいだろうかという問題は、オームの法則だけでは解けない。それが地球温暖化の原因にもなるので、軽装で仕事をしようなどという社会的運動まで係わることになるが、同時にそれは、ネクタイ業界にとって景気が悪くなるという矛盾をもたらす。したがって、これが必ず正解というわけにはいかず、総合的に判断して、それがいいだろうと、社会的にコンセンサスを得る必要がある。コンセンサスを得るには、何度も議論して、協同して、問題を解決しなければならない。このような積み重ねを経験して、このような時には、こうしたらいいという、確実ではないが、ある程度の信頼のある経験則のような因果関係を知ることになる。

世の中で通用する知識とはこのような知識であって、授業における知識とは、その性質が異なる。


人間情報科学とeラーニング p70より



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