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2008年6月13日

頤和園と蒼穹の昴

浅田次郎著「蒼穹の昴」は、中国清朝末期が舞台となっており、この本を2年前に読んだが、その感動とその余韻が鮮明に思い出された。また、読み直したいと思うと同時に、中国清朝末期の史実に興味が沸いた。

頤和園  いわえん /イーホーユワン

中国、北京(ペキン)の北西郊外にある庭園。清(しん)朝の離宮で、中国現存の庭園としては最大規模のものといわれる。その起源は12世紀の金代の行宮 (あんぐう)とされ、1497年円静寺がつくられて、南の西湖とあわせて好山園とよばれた。1750年、清の乾隆帝(けんりゅうてい)は寺を改築し、付属の建物や庭園を整備して清園(せいいえん)と称した。1860年天津(てんしん)条約の批准を強いるイギリス・フランス連合軍の侵入の際、焼き払われて廃墟(はいきょ)となり、1888年復興、西太后は海軍の予算を流用して庭園を改修、頤和園と改名した。しかし1900年、義和団事件に際し八か国連合軍が侵入し、ふたたび破壊された。現存のものは 1903年に復旧したもので、面積約2.9平方キロメートル、周囲8キロメートル。北に万寿山(まんじゅさん/ワンショウシャン)があり、その南斜面より昆明(こんめい)湖岸一帯にかけて仏香閣、長廊、排雲殿などの美しい建物が配置され、西山(せいざん/シーシャン)、玉泉山(ぎょくせんざん/ユイチュワンシャン)を借景とする美しい造園がみられる。この庭園は1998年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。

出典  日本大百科全書

日本大百科全書では、上述のように、「イギリス・フランス連合軍」に廃墟にされたとあるが、頤和園にある説明文は、「フランスとその同盟軍」とフランスが名指しにされており、最近では、聖火の火消し問題など、この頃からフランスとの確執があったのだろうか。

頤和園には、蒼穹の昴でも出てくる 光緒帝が幽閉された建物も見ることができる。

光緒帝 こうしょてい
[1871―1908]

中国、清(しん)朝第11代皇帝(在位1875~1908)。「こうちょてい」とも読まれる。廟号(びょうごう)は徳宗。諱(いみな)は載(さいてん)。諡号(しごう)は景皇帝。年号により光緒帝とよばれる。父は道光帝の第7子醇賢親王奕(じゅんけんしんおうえきけん)。正当な皇位継承の順位ではなかったが、母が西太后(せいたいこう)の実妹であったので、その後ろ盾によって、わずか4歳で即位。事実上の政権は西太后に握られ、名目だけの皇帝にすぎず、生涯西太后の専横に苦しんだ。その治世はイリ事件、清仏戦争、日清戦争などの外圧が相次ぎ、また国内においても社会不安が増大し、清朝の支配は内外ともに行き詰まりを示していた。その危機打開のため、帝は康有為(こうゆうい/カンユーウェイ)、梁啓超(りょうけいちょう/リヤンチーチャオ)らの唱える、日本の明治維新に倣って改革を図る変法自強(へんぽうじきょう)策をいれ、1898年、戊戌(ぼじゅつ)の変法を始めた。その改革は当時の状況に適していたが、西太后ら守旧派勢力の妨害を受け、ほとんど成果を収めないうちに、守旧派のクーデターによりくつがえされ、もろくも失敗した。変法派の康有為らは海外に亡命し、帝自身も宮中に幽閉された。1900年義和団の乱が起こり、列強の軍隊が北京(ペキン)に入城すると、帝は西太后とともに西安へ逃れた。その脱出の混乱の際、帝の愛妃の珍妃(ちんひ)は西太后の手にかかり殺された。翌年和議がなり、北京帰還後も事実上の幽閉生活が続き、革命運動などで揺れる清末の政局にかかわりをもたなかった。08年病死。病弱であったため子はない。その翌日くしくも西太后もにわかに死んだ。

出典  日本大百科全書

また、西太后が京劇を楽しんだという、徳和園を見ることが出来る。蒼穹の昴の主人公(チュンル)が師匠である黒牡丹(ヘイムータン)なみの荒業を連発し、西太后を唸らせた場所だ。西太后が座ったであろう玉座と、その脇にある座があるがここで、側近が官僚たちが歴史を動かす様々な思いをめぐらせていたに違いない。

入場したとき、たまたま、中国伝統音楽が演奏されていた。


西太后 せいたいこう
[1835―1908]

中国、清(しん)朝第9代の咸豊(かんぽう)帝の妃。第10代同治(どうち)帝の生母。諡(おくりな)は孝欽。清朝末期の約半世紀、事実上、中国を支配した人物。同治帝が6歳で即位すると、慈禧(じき)皇太后として、同じ咸豊帝の皇后の慈安皇太后(東太后)とともに摂政(せっしょう)となる。彼女は男勝りの性格で政治上の野心に燃え、温順な東太后を押しのけて実権を掌握。恭親王奕(きょうしんおうえききん)を重用し、太平天国の乱以後、内乱と外圧で動揺する清朝支配の維持に努めた。1875年同治帝の没後、強引に、甥(おい)にあたる幼い光緒(こうしょ)帝をたてて、自ら摂政となり、帝の成人後も政治上の実権を握り続けた。そのため、光緒帝は終始彼女を恐れ、彼女の承諾なしには何事もできなかった。政治的には清朝内の保守派を代表し、戊戌(ぼじゅつ)の変法(1898)を失敗させ、1900年には義和団の農民闘争を利用して列強に宣戦布告した。敗れて彼女自身も西安に避難。事件後、清朝権威の失墜するうちに光緒帝死去の翌日に没した。

出典  日本大百科全書



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