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  毎日にもっと楽~を! BLOG Tokyo

2008年8月26日

シルクロードをゆく 21 - 敦煌(とんこう /トゥンホワン)

シルクロードをゆくの連載もクライマックスを迎えつつある。シルクロードと言えば敦煌だからだ。ラクダ、砂漠、石窟、仏教美術、これらすべてを敦煌で体験できる。砂漠のど真ん中にこれだけの文化が栄えているオアシスなのだ。

写真のガンダムかザクのような建物は、世界遺産の莫高窟(ばっこうくつ)。

敦煌へのアクセスは、バス、飛行機、汽車がある。写真は、敦煌の駅。


到着するや、治安当局による厳戒態勢。なにかと思えば、聖火リレーの練習。翌日は本番。交通が全面規制に入り、結構面倒くさかった。それを理由にタクシーの運転手が多めに要求してくるのもイチイチ面倒くさい。

おなかが空いたので、ラーメン屋に行った。シルクロード名物?のラグ麺を食べた。辛くてウマイ。

敦煌
とんこう /トゥンホワン

中国、甘粛(かんしゅく)省にある市。内陸アジアの乾燥地帯に属し、ゴビ(土漠)中のオアシスにある。歴史上、瓜(か)州、沙(さ)州、燉煌ともよばれた。前漢の武帝(在位前141~前87)時代に、匈奴(きょうど)に対抗し漢の軍隊が黄河の西方に進出したとき、駐屯地となり敦煌郡が設けられたのに始まる。兵士の屯田により農地が開け、漢の西域(せいいき)進出の基地となり、玉門関、陽関の両関が置かれ辺防の要衝となった。ここは中国から中央アジアを経て西方世界に達するシルク・ロードの要地で通商の拠点となり、諸族雑居しイラン系のソグド商人の集落もできた。
 西晋(せいしん)時代には、著名な将軍で能書の誉れ高い索靖(さくせい)や、敦煌菩薩(ぼさつ)とうたわれた訳経僧竺法護(じくほうご)を生み、文化水準も内地並みに高まった。戦乱の五胡(こ)十六国時代に、河西の地は相対的に安定し、前涼(ぜんりょう)、北涼、西涼など諸朝を通じ敦煌は発展期を迎え、一時西涼の国都ともなり、著名な石窟(せっくつ)寺院(千仏洞=莫高窟(ばっこうくつ))が開削され、仏教文化の中心地として栄えた。5世紀初め北魏(ほくぎ)に征服され多くの有力豪族が代都に移されるに及び、やや衰退を免れなかったが、北朝から隋(ずい)・唐にかけてシルク・ロードの要衝として東西文化の交流に一定の役割を果たした。8世紀盛唐には、13郷約6000戸、3万余の人口を擁し、莫高窟に北・南の両大仏が造顕され、絢爛(けんらん)たる浄土図などの壁画で飾られた。ところが安史の乱により唐の勢力は後退し、吐蕃(とばん)(チベット)に数十年間占領されてのち、848年土豪張議潮が吐蕃の内紛に乗じこれを追い、唐に帰順して帰義軍節度使に任ぜられた。以後、唐、五代、北宋(ほくそう)を通じおおむね中原(ちゅうげん)の正朔 (せいさく)を奉じたとはいえ、通交は不安定で独立地方政権に近く、張氏、曹氏が節度使を世襲し、遼(りょう)、甘州回鶻(かいこつ)(ウイグル)、于(うてん)(ホータン)など諸族政権と複雑な関係を取り結び、東西交易仲介の利を図った。11世紀なかばにタングートの支配下に陥り、ついでモンゴル、吐魯番 (トゥルファン)のウイグルの勢力下にあってのち、18世紀に至り雍正(ようせい)年間(1723~35)に清(しん)朝の管轄するところとなり、ふたたび多数の漢人が入植し、今日では13万1515(2000)の人口を有し、千仏洞で名高い観光都市となった。
 20世紀初め、石窟の一室に封蔵されていた数万点の古写本断巻、幡幢(ばんとう)などが発見されスタインやペリオによりイギリス、フランスに持ち出され、にわかに敦煌資料の貴重さが喧伝(けんでん)され、「敦煌学」とよばれる新研究領域が開かれ、文献学者や美術史家の注目の的となった。新中国は敦煌研究院(旧文物研究所)を設け石窟の修復保存と研究に努めている。

出典:日本大百科全書






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