2008年8月28日
シルクロードをゆく 23 - 敦煌・玉門関
紀元前2世紀末、中国、漢の武帝のとき、万里の長城の西端に置かれた関所だった玉門関。ここから先は異民族の地、西域だ。漢の武帝は『三国志演義』に登場する名馬・赤兎馬のモデルとも言われる汗血馬(かんけつば)を求め、外交交渉でこれを手に入れようとしたが、決裂したので将軍李広利に遠征を命じた。李広利は2年にわたる遠征に失敗し、多くの兵を失い、敗残兵を連れて敦煌目指して引きあげた。遠征失敗に激怒した武帝は、ぴしゃりと玉門関を閉じ、「あえて帰国しようとする者は斬罪に処せ」と命じたという。
玉門関は無情の関所だったのだ。
李白の同時代人、王之渙の涼州(甘粛省)詞。
黄河遠く上る白雲の間
一片の孤城万仭の山
羌笛何ぞ須いん楊柳を怨むを
春風度らず玉門関玉門関の向こうでは、春風すら吹くこともない
玉関門といえば、漢文の授業で習ったことがあるかもしれない句がある。
兵役のため辺境の地(玉門関)に居る夫を待ち侘び
秋の夜、妻が衣を打つ情景を詠んだ詩
李白の子夜呉歌
長安一片の月
万戸衣をうつの声
秋風吹いて尽きず
総て是れ玉関の情
何れの日か胡虜を平らげ
良人遠征を罷めん--
月夜に 衣を打つ砧の音が響き
秋風が止むことなく吹きつける...いつになったら胡(えびす)を討伐し
夫は遠い戦地から帰ってくるのだろうか
玉門関
ぎょくもんかん紀元前2世紀末、中国、漢の武帝のとき、万里の長城の西端に置かれた関。南道の出発点である陽関とともに、中国と西域(せいいき)諸国との境界となっており、北道の出発点であった。のち、武帝が河西(かせい)四郡を置いて西域経営を行ったとき、その拠点ともなった。西域諸国から玉(ぎょく)を輸入するとき、この地を経たことにより、その名がある。その位置は、時代により変動はあるが、晋(しん)代以前は、1907年、イギリスのスタインの考古調査により、敦煌(とんこう)県の北西約100キロメートルにある小方盤城がその地であることが証明された。城は方形で、北と西とに門があり、北門の外には疏勒 (そろく)河が流れていた。六朝(りくちょう)時代には、安西からハミに至る道が重要となり、関は東方の安西の双塔堡(そうとうほ)付近へと移った。宋 (そう)代以後は、オアシス・ルートの衰退に伴って関も廃された。
出典:日本大百科全書
- by editor
- at 20:45
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